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2.湖畔の出逢い ―1― [吹きゆく風と、沈む夢【完結】]

 イセナーダ王国の王都よりもずっと北に、イーシュ湖岸の草原に囲まれたリンヒルという街がある。海と湖に挟まれた空気の良い土地で、貴族や大商人などの療養地として知られている街だ。
 湖の畔に座りその街並みを眺めていた彼は、小さくひとつ溜め息をついた。裕福そうな館が並ぶこの街では、安値をはたいて彼の歌を買おうなどという物好きは少ないだろう。けれども、今日中に次の街へ辿り着く事は不可能であるし、金を出して宿をとる気もしない。随分と長い間、歌で宿代を払う生活を続けているため、それが当然のようになっているのだ。
 広い街だけに物好きもいるだろうと思い直して、彼は傍らに置いてある布で包まれた荷物を手に取った。するりと組み紐を解くと、中から白銀製の竪琴が現れる。素人目にも高額な品とわかるその竪琴を、彼は僅かに眼を細めて見つめた。
 心を鎮めるように静かに息を吐き、細く長い指を軽く弦に滑らせて音を奏でる。『誰か』のためではなく、空や大地、世界に向けて奏でられる旋律。それは、彼が人前で奏でるどの曲よりも美しかった。しかし、それを聴き比べる者がいないために、誰にも知られる事はない。
「誰だ?」
 不意に指を止めた彼は、優しげだった瞳を鋭く尖らせ、今にも歌い出そうとしていた唇から低く誰何の声を上げた。
 返事はない。
 気配のする方向に視線をやると、湖岸特有の背の高い草中に上質の絹を纏った小さな子供が立っていた。淡い紫色の服の襟や袖には、銀糸で刺繍が施されており、少女の暮らしが豊かである事を示している。おそらく名のある貴族か豪商の娘であろう。
 供の者を連れず、しかも夜着姿で立っている理由を問おうと彼は再び口を開いた。
「おい、おまえ」
 尖らせたままの瞳に怯えたのか、少女は身を竦ませて大きな淡緑の瞳を更に大きく見開く。
「おじさま、さっきはとても優しそうだったのに。今は怖い。だから、やっぱりいいです。さようなら」
 彼はむっとして、踵を返す少女の後襟を掴み上げた。
「俺はまだ十七だ。どこをどうみたらおっさんに見えるんだ」
 大人気ないと自覚しながらも、彼は言葉を続ける。
「せめて、お兄さまと呼べ、お兄さまと」
「お兄さま?」
 少女は彼を見つめながら、素直にそう反芻した。瞳を和らげて笑顔を見せてやると、少女もつられたように笑顔になる。
「お兄さま、たてごとのおけいこをしていたの?」
 途端に打ち解けた様子になり、少女が訊いた。その目線は、彼が小脇に抱えている竪琴にある。
「いや、天とか、大地とか。そういう存在達に捧げたものだ。練習じゃない」
 少女は「ふぅん」と呟いてから満面の笑みを浮かべた。
「ねぇ? わたしにもきかせてほしいな。いけない?」
「いけなかないけど。人間相手には金もらわないと弾かない主義なんだ。おまえ金持って……。って、いや、そんな事よりも、何でそんな格好でこんな所にいるんだ?」
 己に向かって差し伸べられた少女の右手を、優しく握り返してやりながらそう訊ねる。まるで血が通っていないかのように冷たい彼女の手に驚き、彼は思わず息をのんだ。
 十七の年にしては大人びた……整った眉目が僅かに歪む。
「ん、あのね。わたし、身体のぐあいがとても良くないのだって。それで、おうとにいられなくてここに来たの。でもね、毎日毎日とてもたいくつで、だからおうちを抜け出してきたの。だってね、とてもとてもさみしいのよ。一人で、ずっと静かに寝ていないといけないのだもの」
 頼りなく痩せた身体に、青白い頬。まだ十歳にもなっていないであろう少女の、本来あるべき生気が彼女には欠けている。
「みんなが大人しくしていて下さいって、あんまりうるさいから、出てきちゃったの。でもね、今、とても困っていたところなの。ここがどこだかわからなくて。そうしたら、とてもきれいな音が聞こえたから、ここへ来てみたの」
(リンヒルに療養に来てるのか? だったら、貴族か豪商の子だな。恩売りつけて今夜の宿にでもすっかな)
 そんな事を思いながら改めて少女を観察する。すると眼が合って、少女は小首を傾げてにこりと微笑んだ。
 澄んだ瞳に、どうしてだろうか気恥ずかしいような気持ちになる。心の奥を見透かすような、そんな無垢な瞳に彼は確かにたじろいでいた。
「なぁ。俺が家まで送ってってやるからさ。父さんか母さんに頼んで俺の事を一ヶ月くらい雇ってくんない? そうしたら、毎日、竪琴を聴かせてやれるよ」
「ほんとに?」
 少女は小さく首を傾けたまま、そう訊いてくる。目線を反らさないままゆっくりと頷いてやると、彼女は小さな両手で彼の手を握りしめた。
「わたし、ラティアっていうの。あ、お母様もお父様もおうとにいるの。だから、すぐにはたのめないけれど、それでもいい?」
「ああ。……俺は、リギア。見てのとおりの吟遊詩人だ。よろしくな」
「うん!」
 予測のとおり、リギアは少女をリンヒルへ連れて行った。一人で外出した事のない少女の話はとても曖昧だったが、少女が住まう屋敷の使用人達が彼女を探しており、彼が思っていたよりは簡単に送り届ける事が出来た。
 彼の考えどおり、ラティアは豪商の娘だった。両親達は王都にある本宅で忙しい日々を過ごしており、リンヒルを訪れる機会はあまりないのだと言う。
 リギアは少女の恩人として手厚くもてなされた。吟遊詩人と名乗り竪琴の音色を披露すると、雇って欲しいのだという申し入れも快く受け入れられた。

 リギア十七歳、ラティア九歳の春の事である。


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