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5.凍てつく予感 ―8― [吹きゆく風と、沈む夢【完結】]

 不意に、クリムゾンの微笑みの種類が変化した。少女らしく愛らしい笑みになったのだ。一瞬、我を忘れて嘆息を漏らすほど、その表情は可憐だった。
 あどけなく無邪気なそれは、暗殺者のものとは思えない。しかし、その紫の瞳は少しも笑ってはいないのだ。
 一体、何人の標的がこの笑顔に惑わされてきたのだろうか。そんなことを思いながら、リギアは短剣を逆手に持ち構えた。
「念のためにききたいんだが、クリムゾン? 俺に与えられた仕事は何だ?」
「暗殺の依頼をこなすこと。標的は、あなたが思っている通りの娘だよ」
 返答を聞き、リギアは短く息を吐きながら一瞬だけ眼を伏せる。彼は、改めて己が過去に犯してきた過ちを突きつけられたような気持ちになっていた。
「なぁ、クリムゾン。人の命を絶つってことは、そんなに簡単なことじゃなかったんだよ」
 無駄とは知りながらも、届かない言葉を少女に向けて囁きかける。
「そう気づいた時に、俺は進む道を引き返すべきだったんだ」
 彼は過ちに気づきながらも、自暴自棄になり罪を重ねてきた自分を恨めしく思った。もしもあの時に違う道へ進んでいたら、ラティアを傷つけることはなかったのだと、思わずにはいられない。
 暗殺者の少女は可愛らしい仕草で小首を傾げながら、唇には彼を嘲笑うかのような笑みを浮かべていた。
「ラティアを殺させはしない! 何があっても、こいつだけは俺が守ってみせる」
 彼の抱く複雑な想いを、この少女に伝えることは出来ないのだ。それを悟ったのか、リギアは諦めにも似た表情で己の短剣を構えなおした。
「馬鹿げてる! ぼくは愛だとかそんな感情は信じない。その心も。そのために振るう力も。何もかも! 大嫌いだ!」
 何故だろうか。少女は今にも泣き出しそうな表情をしていた。そして、印を結びながら荒い調子で呪文を唱える。
【闇に潜みし精霊達よ! 我が願いに従いて、この者を滅せよ!】
 二人を鋭く睨みつけながら印を切り、右手を彼の方に突きつけた。リギアも素早く印を結び、防御のための呪文を唱えた。
 具現した結界は、リギアではなくクリムゾンを包み込む。思いがけぬ彼の行為に、少女は息を飲んだ。
 彼女の精霊魔術が結界の力を上回れば、防護する手段を失った彼は闇に飲まれて魔術の威力を直に受けることになるのだ。
「それ程の自信があるんだ?」
 呟いたクリムゾンの唇に、薄く嘲笑う様な笑みが浮かんだ。
 リギアは自分の結界が決して破られないと確信しているのだろう。こんな戦い方をする人間には、今まで出会ったことがない。
「けれど、ぼくを甘く見ないで欲しいね! この年にして、裏切り者を始末する立場に選ばれた力の持ち主なんだから」
 忌々しげにそう叫び、クリムゾンは結界を突破させるべく力を強めた。リギアは冷淡な瞳で彼女を見つめ、そして唇の左端を僅かに吊り上げる。自嘲的な笑みだった。
「おまえがいくつなのか知らねぇけどな、俺は十の時からその仕事してたぜ」
 嫌悪感を伴って吐き出された言葉に、クリムゾンの目が見開かれる。その瞬間、闇の精霊達が彼女の制御力を振り払った。
 目標を失い暴走する力は、捌け口を求めるように術者である少女に襲い掛かる。
「くぅ……ぁっ……」
 闇色の刃が容赦なく彼女の白い肌を切り裂いた。おびただしい量の朱色の雫が、辺り一面の白い世界を紅く染め変える。
「な、ぜ……」
 がくりと雪の上に倒れ込み、少女はうわ言のように呟いた。失血のために身体を震わせながら、クリムゾンは己の身体かが流れる血液が雪に吸い込まれていく様を見ていた。
「相手の力量を読まないからだ、クリムゾン。おまえの戦い方は、捨て身そのものじゃないか」
 リギアは嘆息しながら、冷たい紫の瞳を彼女に向ける。そして、ゆっくりと近づき傷ましげな表情で少女を見下ろした。
「だって、ぼくには……守らなくてはならないものなんて、何もないんだ」
 視線を反らし、クリムゾンが呟く。その、何もかも諦めたような空虚な響きに、思わずラティアが身震いをした。
 クリムゾンは自分を見つめてくるリギアから眼を反らし、彼の短剣を眼に留めて淡く笑う。
「どうでもいいんだ。何もかも要らないし、皆、みんな大嫌いだ」
 力を失って彷徨う視線が、顔を強張らせて雪の上に膝をついているラティアに定められた。未だ、涙の止まらない彼女を見て、少女の唇が笑みの形をつくりだす。
「自分では気付いていないんだろうけれど。あなたはとても幸せなんだよ、ラティア」
 そうして淡く微笑むだけで、少女の印象は別人のように変化した。
「幸せ……?」
 こんな気持ちを抱えることが? と、小さく呟くラティアに、クリムゾンは小さく頷いて見せた。
「そう、幸せ。あなたは幸せなんだ」
 そして、膝をついて自分の脇に屈みこんだリギアのほうへ両腕を伸ばす。
「リギア、ぼくの心が壊れていると、一番良く分かっていたのは、ぼくだよ。一番恐れていたのも、ぼくなんだ。でも、これで、やっと」
 微笑を絶やさないまま、彼女はリギアの右手を掴んだ。
「何もかも、終わりにする決心がついた」
 突然の彼女の行動に、目を見開くリギアの手から短剣を奪う。
「よせ!」
 彼女が何をしようとしているのか――直感的にそれを悟り、リギアは短剣を彼女の手から奪い返そうとした。
 しかし、ほんの僅かにクリムゾンの動きがそれよりも速い。半身を起こしてまっすぐな視線を二人に馳せ、己の喉元を手に握った短剣で掻き切った。
 少女の手から力が抜けて、短剣が雪の上に滑り落ちる。同時に、視界を紅く染める程のおびただしい量の鮮血が辺りに飛び散った。
 そして、辺り一面の銀世界を、赤く、朱く、塗り替える。
 痙攣と見紛うほど僅かに、少女の唇が力なく言葉を紡ごうとした。喉を切ったためだろう、それは声にはならず空洞を抜ける風のような不気味な音をたてる。
 力を失い倒れこむクリムゾンの背を、咄嗟に差し伸べた腕に抱きとめてリギアは短く息を吐いた。
 ――フィルア。それがぼくの名前。……覚えていてくれたら嬉しい。
 鼓動が止まるその前に、彼の心に少女の声が響く。
「フィルア……」
 少女の首の後ろに腕を回し頭を支えながら呟くと、暗殺者の少女は淡く笑みを浮かべた。そして、そのまま彼女の身体から一切の力が抜けていく。
 絶えなく続くラティアの嗚咽を聞きながら、リギアは固く目を閉じた。

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5.凍てつく予感 ―7― [吹きゆく風と、沈む夢【完結】]

「止せ! 俺はもう、ギルドに戻るつもりはない。覚悟も出来ている。さっさと、おまえに下された命令を実行すればいい!」
 少女の言葉を遮るリギアの声に、ラティアは固く眼を閉じる。
 もう、充分だと思った。彼女の中で育っていた不安が、急速に現実へと姿を変える。そんな彼らを見て、クリムゾンは堪えきれぬ様子で笑みをこぼしていた。
「言っただろ? ぼくは、この人の心を粉々にしたいんだって」
 あどけなさの残る表情で愉快そうに言い放つ少女を、彼はぞっとする思いで見つめている。クリムゾンを哀れむような気持ちの反面、彼女の姿に、そうなっていたかもしれない自分の姿を重ねていた。
 リギアは軽く唇を噛み、自分を引き止めた存在が何であったのかを思う。自然のものたちと、それらを惹きつけることの出来た自分の音。そして、一人の少女。崩れていた心を、優しく紡ぎ合わせてくれた存在はそれらだった。けれども、その少女の心を壊してしまったのは、他の誰でもなく自分なのだ。憎しみから繰り返される罪と矛盾、そして連鎖を彼は呪った。
 暗殺者の少女は、凍てついた瞳のまま唇だけを笑みの形にする。それから、結界の中に立ち尽くすラティアに囁きかけた。
「この男こそが、あなたの捜し求めている男だよ」
 少女の言葉を半ばにして、ラティアは両手で耳を覆い激しく左右に首を振る。クリムゾンの言葉をどうにか止めようとして、リギアは素早く呪文を唱え印を結んだ。
「『紫眼の暗殺者』などの異名で知られる暗殺者リドル。我らが暗殺者ギルドの中でも、一、二を争う腕前の暗殺者だよ。彼は単独で行動することが多かったから、素性を知る者も顔を知る者も殆どいない。ぼくも、今回の任務にあたり特別に教えられたんだ」
「いやだ! そんなこと信じないよ、信じない!」
 感情の昂りを抑えられず、叫んだラティアの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。それと同時にリギアの呪文が完成し、炎が矢の形態をとりクリムゾンを襲った。
「しょうがないお嬢さんだなぁ。もう、真実はわかっているはずだよ。別に、認めたくないっていうなら、ぼくはそれでも構わないけどね」
 傾きかけた弱い日の光に照らされながら、クリムゾンは攻撃を避ける様子もなく声高に笑っている。木々が落とす影とその隙間から射す光が、彼女を幻想的に彩っていた。
「良く見ておくといいよ、嫌でもわかるはずだからね。でも、あなたが絶望の淵に立たされても、心配することはないよ。ぼくが、苦しまないように殺してあげるからね」
「クリムゾン!」
 怒りの篭った声で彼女の名を叫ぶと、少女は眼を細めてリギアに向き直る。そして、彼の薄い水色の瞳が、さざ波のように淡く紫に揺れる様を嬉しそうに見つめた。
「嬉しいよ、リギア。憎しみと怒りを感じる。ぼくが理解して共感できるものはただそれだけなんだよ。他の感情はぼくにとっては不快なだけだ」
 全身のいたる箇所に火傷を負いながら、それでも彼女の表情からは痛みすら感じられない。
「崩れていくのがわかるよ、心がさ」
「貴様……っ」
 少女の浮かべた柔らかい微笑に、リギアは激昂して声を荒げた。かろうじて瞳に留まっていた魔術も崩壊し、天から与えられた色である紫があらわになる。
「『紫眼の暗殺者』、あなただってぼくと同じはずなんだ。行き場のない怒りと憎しみを心の中に飼っているだろ? 何も見ようとはせず、日々をのうのうと生きている人間達が許せない。そう思っているはずなんだ」
「過去にそう思っていたことがあるのは事実だ。けれど、それがただの言い訳にすぎないことを今は知っている」
 忌々しげに吐き捨てて、リギアは大きく息を吸い込んだ。
【我、大気包みし闇の精霊に命ずる! この者を裁く黒き炎を!】
 精霊の言葉から成る呪文を唱えながら素早く印を切り、彼は両手を大きく開く。
【我の望みを叶えよ、水精。我を護る盾となれ!】
 クリムゾンもまた、印を結んでその精霊魔術を受け止めようとした。しかし、リギアが具現させた黒き炎は勢いを留めることなく突き進み、彼女の創りだした結界を粉々に砕いていく。
「なっ……」
 少女は驚愕に眼を見開いて、刃のようなそれらが己の肌を深くえぐっていく様を見ていた。こうも容易く、威力すら削ることも出来ずに結界が破られるとは思ってもいなかったのだ。
「クリムゾン。おまえはもう、戻ることは出来ないんだろうな」
 憐れむように、小さくリギアが呟いた。その少し後に立つラティアは、飛び散る鮮血を眼にしてだろうか、顔色を失っている。
(紫眼の暗殺者――リドル?)
 紫色の瞳を見せ付けられても、弱いのだと聞いていた魔術が相当な力量なのだと見せ付けられても。自分を守るように背を向けて立つこの人がリドルなのだと、心の奥底では受け入れられずに拒んでいる。
「……リギアっ」
 ラティアはしゃくりあげながら雪の上に突っ伏し、子供のように声を上げて泣き出した。リギアの優しさも厳しさも、言葉も。全て嘘だったのだろうかと思わずにはいられなかった。全てが偽りだったのだろうか……そう思うと、胸がえぐられるように痛かった。
 打ちひしがれるラティアを見て、クリムゾンが楽しげに唇を歪め、満足そうに小さく微笑む。
「どうして? どうして、こんなことに」
 堪えきれぬ嗚咽を漏らしながら呆然と呟くラティアの姿に、リギアは唇をきつく噛み締めた。触れていた柄を握り締めて剣帯から短剣を引き抜き、自らの気を静めようと大きく息を吸って吐く。

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5.凍てつく予感 ―6― [吹きゆく風と、沈む夢【完結】]

 冷笑を張り付かせたまま、リギアは低く腰を落とす。哀れみと酷薄が混ざった色を見とめた瞬間、男は己の眼を疑った。
「なにっ?」
 痛みも何も感じない。けれども、己の左胸には確かに彼の短剣が深く突き刺さっている。
「な? 自分と相手の力量の差すらわかんねぇあんたに、俺が殺られるわけないだろ?」
 短剣を引き抜きながら、リギアは男を自分とは反対方向に蹴り飛ばした。血飛沫が上がる方向が反れ、少量にはなったもののやはり返り血が彼の頬を汚す。服に飛沫した血痕は、彼が好んで着る黒色に紛れた。
「何故……」
 虚ろな瞳で、男はそう呟いた。殺気を感じることもなかった優男にしてやられるとは、思ってもみなかったのだろう。力なく手を彷徨わせた後、がくりと地に膝をつく。純白の雪が、男から流れ出る液体を吸って、朱く禍々しい色に染まっていった。
 驚愕の表情でそれを見つめた後、男は倒れて動かなくなる。ほんの一瞬の間に起こったその出来事を、残り四人の男達とラティアは微動だにせず見つめていた。
「こ、こいつ、詩人なんかじゃねぇぞ!」
 我に返った男のうちの一人がそう叫ぶのを、どこか遠くにラティアは訊く。
(動きが速くて何も見えなかった。でも、こんなことを出来る人は……)
 この人は、何者なのだろうと初めて思った。
 幼い頃に出会った彼は『吟遊詩人』だと名乗り、自分は与えられたその情報を信じていた。けれども、ラティアが知っている彼は、あの屋敷の中でのリギアだけなのだ。目の前で見せられたこの動きが、『吟遊詩人』の動きではないことくらいラティアにも理解できた。
「だったら、何だと思うんだ?」
 人の悪い笑みを浮かべ、リギアは四人の男をゆっくりと順に見回した。そう言われて、彼らは言葉に詰っている。リギアの動きは、剣士や騎士のそれでは決してない。どちらかといえば、自分達と同じ種類のものだ。しかし、リギアを同業者だとは思えなかった。彼らが纏う独特の空気を持っていないのだ。
「そんなことは、どうでもいいんだ! 俺達は、この娘の命さえとれればいい。その邪魔だてをし、おまけに仲間まで殺りやがったんだ。それなりの覚悟はあるんだろうな」
 声を荒げ凄んでみせる男に、リギアは薄く笑って目線を合わせた。
「さぁな?」
 嘲るようなその口調に、彼らの一人が頭に血をのぼらせる。
 強く地を蹴り飛び掛って来る男を構えもせずに一瞥し、リギアは無造作に右手を動かした。肉の裂ける嫌な音が響き、続けて血の飛沫が散る。
 ラティアは耐えられずに両手で口元を覆い、雪の上に膝をついた。少女の眼が固く閉じられているのを横目で確認し、鋭い口調でリギアが声をかける。
「眼を開いていろ! 見てなければ避けることも出来ない。それに、これがおまえのやろうとしていることだ!」
 その言葉に、ラティアは表情を強張らせ震えながら眼を開いた。リギアに言われ、改めて思い知った。自分が行おうとしている復讐は、こういう――人間の命を奪うということなのだ。
 彼女が眼を開くと同時に、首筋に深い傷を負った男が目の前に倒れてきた。真紅に染まった雪と強い血の匂いに、ラティアの意識が遠のきかける。けれども彼女は、必死で己を奮い立たせとどまった。
 震える彼女の目尻に涙が滲んだ。
 怖くて、リギアが怖いのか、今、目にしたものが怖いのか。どちらかはわからないけれども、とにかく怖くて。強張る指先をまわし、己の身体を掻き抱く。
「ほら、どうした? かかって来ないのか?」
 冷たい微笑を男達に向けながら、リギアは右腕を掲げて見せた。
「ならば、こっちから行くぜ?」
 彼が浮かべるのは、昏く澱んだ独特の笑みだ。それに何かを感じたのか、残された三人の男は情けない悲鳴をあげる。そして、一目散に踵を返してその場から逃げ去ろうとした。
 それを途中まで見送り、優しい、いつもの表情に戻ったリギアが、腰を抜かしているラティアを助け起こそうと手を伸べる。
「リギア、あなたは、何者なの?」
 神聖魔術の結界を解いたラティアは、力のなく彼に問うた。
「俺は、俺だよ」
 曖昧な答えと共に悲しげに微笑み、リギアは血で染まった己の手から視線を反らした。その手を取って良いものか迷い、ラティアの視線が宙を彷徨う。
「教えてあげようか?」
 唐突に、陰湿な声が聞こえた。反射的に身構え、リギアは辺りを見回すが声の主の姿は見えない。
 強い力が放たれたことだけを悟り、リギアは咄嗟に呪文を唱えてラティアを抱き寄せた。ラティアも衝撃を覚悟して、リギアにしがみ付いて固く眼を閉じる。
 しかし、痛みや衝撃が彼らを襲うことはなく、代わりに耳を覆いたくなるような断末魔の叫びが聞こえてきた。それは、おそらく先程逃げ出した三人の男のものだ。
「酷いことを」
 呟いて、リギアは唇を噛んだ。
「酷いなんて、面白いことを言うね。彼らはギルドの規律を犯した。だから、始末されて当然なんだよ」
 その声は幼い少女か成長過程の少年のように高く澄んだものだった。少年めいた口調で淡々と語りながら、楽しげに笑い声を漏らす。
「おまえは、誰なんだ?」
 ラティアから手を離さないまま、彼は低くそう誰何した。
「ギルドの者だよ。あなたの真意を確かめてくるよう遣わされたんだ」
 そう答え、声はゆっくりと呪文を唱える。
「ギルドの……」
 苦く呟くリギアの横顔を、ラティアは不安に満ちた瞳で見つめた。
 胸の中にわだかまっている不安と疑いが。少しずつ、少しずつ、膨らんで形を成していく。真実を知りたくないと、無意識に彼女は強く思っていた。
「吟遊詩人リギア。ぼくの質問に応えてくれるよね?」
 呪文の完成と共に現れたのは、長い暗色の金髪を風になびかせた紫眼の少女だった。
 陶磁器のようにすべやかな白い顔を彩る、ふっくらとした薄紅色の頬に艶やかな朱の唇。十四、五歳に見える愛くるしい少女だ。けれども、その容姿をよりひきたてるはずの大きな瞳は冷え切っていて、まるで感情というものが見られない。そのためだろうか、全体的にどこか作り物めいた雰囲気を感じさせた。
 少女から眼を反らせないまま、ラティアは小さく身震いをする。『生きている人形』のようだと頭の片隅で思った途端、紫眼の少女が小さく肩を震わせながら笑った。
「素直な人だね。確かにぼくは人形かもしれないよ。不要な感情は全て捨ててしまったんだから」
 その言葉に息を飲む二人を満足そうに見やり、少女は声の調子を強めて笑う。
「知らなかったの? 魔族には、人の心を読む力を持つ者もいるんだよ。触れて感じる者、心を受ける者、感じ方は様々だけれど。ぼくのこの力はとても弱い方だから、あまり役にはたたないんだけどね。ラティア、あなたのように無防備に心を伝える人のものしか読めないんだ」
 彼女の浮かべる笑みは、とても愛らしく魅力的だ。けれども、瞳と声は負の力を放つかのように凍てついていた。その視線をラティアに留め、少女は唇から軽やかな笑い声を漏らす。
「きれいな人だね。……とても綺麗だ。ねえ、リギア。この人、とても戸惑っているよ? 本当の事が知りたいと思っている。でも、知りたくないとも思っているんだね。何て、素直で幸せそうな心なんだろうね。本当に、綺麗な心――」
 そこまでを一気に言葉にし、少女は笑みを消して両手をきつく握り締めた。同時に、彼女の虚無的な瞳に憎悪のような強い光が灯る。
「粉々に壊してやりたい」
 夢見るようにも見える眼差しで、少女はゆったりと呟いた。
 恐怖から身を竦ませるラティアの肩をそっと抱き、リギアが吐き捨てる。
「狂ってるな」
「そうだよ」
 眼を細めてリギアを見つめながら、少女は気だるそうに応えた。
「ぼくはきっと、狂っている。それは自分でも良くわかっているさ」
 憎悪以外の表情を映さないその瞳に、一瞬だけ哀しみの影が降りる。遠い思いを振り切るように、少女は眼を伏せてから殊更にゆっくりと言葉を紡いだ。
「ぼくはクリムゾンだ。リギア、あなたに質問がある」
 まっすぐに見つめられたリギアは、再度、防御のための結界を張るようにラティアに告げてから、腰に収めた短剣の柄に触れる。
 この少女――クリムゾンは、自分の正体を知っている。その確信から、彼女の要件には察しがついた。しかし、敢て訊ねてみせる。
「何を、訊くように命じられてきた?」
「あなたの真意の確認を。このところ連絡を絶っているが、ギルドから離反するつもりでないのならば、証に仕事をひとつこなしてもらいたい。もしも、離反するつもりであるならば、それなりの覚悟をするように」
(それなりの覚悟……か)
 淡々と伝えられる内容に、リギアの唇に薄い笑みが張り付いた。『裏切り者』は始末される。それがギルドの決まりだった。ならばこの少女は、己に差し向けられた暗殺者なのだろう。外見は可憐な少女であるが、その力が人並み外れて高いことは先程の攻撃で見せ付けられている。
「それでね、ラティア。先程、言いそびれてしまったことだけど」
 残酷さを感じる声で、笑みを浮かべクリムゾンが言った。

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5.凍てつく予感 ―5― [吹きゆく風と、沈む夢【完結】]

 二人はイルクに帰るため、深い森の中を分かつように伸びる街道を歩いていた。踏み固められ滑りやすくなっている雪の上を慎重に進み、僅かに木々の開ける場所に踏み出した瞬間のことだ。
「ラティア」
 鋭く尖った小さな声で名を呼ばれ、ラティアはびくりと身を竦ませた。
「ゆっくり歩くんだ。決して立ち止まったり走ったりするな」
 囁きよりも小さくかろうじて彼女の耳に届く声は、とても鋭く恐怖を抱く程に低いというのに、リギアの表情は普段どおりだ。
 至近距離から伝わって来る彼の感情すらも、落ち着いていて平素と変わったものは読み取れない。けれども、言葉の真剣さは理解することが出来、ラティアは素直に頷いた。
「聞いておきたいことがある。何か、戦えるような技能を持っているか?」
「神官の資格は持っているよ。一応。でも、私、戦ったことなんてないよ?」
「そんなことはわかっているさ。防御結界くらいは大丈夫なのか?」
「うん、たぶん」
 声をひそめて頷いてから、ラティアは「でも、どうして?」と首を傾げる。歩む足を止めないまま、半ば呆れたような様子でリギアは彼女をしばし見つめた。
「これで、暗殺者相手に仇を討とうってんだからなぁ」
 無謀にも程があると、心底呆れる。しかし、そんなところも愛おしいなどと思えてしまうのが、惚れた弱みというものなのだろう。
 子供をあやすようにラティアの頭を軽く数回叩いて、リギアは深く溜め息をついた。
「何よ。どうせ、無鉄砲だとか言いたいんでしょ」
 唇を尖らせて顔を背けたラティアが、声の調子を高くして言葉を吐き出す。
 その次の瞬間、彼は腕を伸ばしてラティアを素早く抱き寄せた。
「きゃ、ぁっ?」
 唐突に身体が宙に浮いて、驚いたラティアがうわずった悲鳴をあげる。
「ど、どうしたの? リギア」
「暗殺者だ。来るぞ!」
 彼女の耳元にそう囁いた瞬間、傾きかけた日の光を反射させて短剣が飛んで来た。青白く煌くその刃を見てリギアは舌を打つ。
 短剣の刃に、毒と思われる液体が塗りつけてあるのだ。身を捻らせて短剣をかわすと、彼は小さく嘆息を漏らした。
 村を出た時から、つけられていることはわかっていた。出来るだけイルクに近付こうと、隙を見せないように気を張ってここまで歩いて来たのだ。
 気配は四、五人。数人で組み少数の標的を狙うような輩には、負けない自信がある。しかし、正体を偽った上でラティアを伴う今は、彼の『力』を使うわけにはいかない。その上、ラティアを守りながら一戦交えるというのも厄介だった。
 リギアは乾いた唇を舐めて潤し、安心させるように少女に笑いかけた後、表情を引き締めゆっくりとした動作で腰帯に結わいてあった短剣を鞘から引き抜いた。その動作はとても手馴れたものに見える。彼が剣を帯びていたことすら知らなかったラティアは、愕然とその様子を見守った。
「ラティア。おまえの周囲だけでいい。物理結界を張るんだ」
 短く言い放つ彼の表情が厳しい。ラティアは戸惑いを隠せず眼を瞬かせた。沸々と、押しつぶされそうに重たい不安が胸中に広がっていく。
「早く!」
 苛々とした声に促されて、ラティアは神聖魔術の呪文を口にした。それに応え、彼女の周囲が淡く輝き、光に包まれる。
「安心しろ、出来るだけ庇うから。それは、もしもの時の御守りだ」
 ラティアに笑顔を向けてから、彼は静かに深く息を吸う。
「リギア。だって、あなたは吟遊詩人なのに! どうやって戦うの? いくら魔術が使えるからって無茶よ」
 ここは逃げましょうと懇願する様子のラティアに視線すら向けず、リギアは突き放すように言った。
「こいつらから逃げることは出来ない。どんな手を使っても追って来るからな。それに、ラティア? おまえはそういう連中を相手に喧嘩を売ろうとしているんだぞ?」
 ラティアは言葉に詰まって、両手を握りしめる。今まで実感することのなかった『暗殺者』という言葉の響きに、恐怖が湧き上がった。それと同時に、不意に疑問が頭をよぎる。
(どうして、そんなに詳しいの?)
 先程のリギアの言葉は、伝聞調ではなかったのだ。村を出た時に感じていた違和感が、次第に大きくなっていくのが自分でもわかる。疑念の先に辿りついてしまうことが恐ろしく感じられて、彼女は気持ちを振り払うように大きく首を横に振った。
「出て来いよ、隠れたって無駄だぜ?」
 必死に自身の思いから意識を反らせようとしている彼女の様子には気付かず、リギアは街道をはずれた林の中へと目を向ける。
「はっ。なかなか、勘が鋭いじゃないか」
 口許に薄い笑みを張り付かせた数人の男達が、彼の視線の先から姿を現した。
「だが、あんた吟遊詩人だろ? 怪我したくなかったら逃げちまいな。俺達の狙いはそこのお嬢さん一人だからな」
 リギアの正面に立った男が、そう言ってにやりと笑う。狙いは自分だとばかり思っていたリギアは、一瞬、顔色を失った。
「狙われるような、覚えがあるか?」
 しかし、次の瞬間には唇に意地の悪い笑みを浮かべ、目線だけを背後に巡らせる。ラティアは困惑した様子で眼を伏せ、俯いた。
「本当は『リドル』の仕事なんだがな、裏切った奴にいつまでも眼をかけてやる上が気にいらねぇ。だから俺達が代わりに任務を遂行して、二度と奴が戻れないようにしてやるのさ。ま、おまえなんかには、わからねぇ話だろうけどな」
 短剣を弄びながら、その男は言葉を続ける。こちらを怯えさせようとしているのか、生来の性格なのか、彼は勿体つけるように短剣の刃を見せ付けていた。
(馬鹿だな)
 他人の仕事を横取りした人間が、どういう仕打ちを受けるか彼は知らないのだろう。そう考えると、彼を哀れにさえ思う。それよりも、「リドルの仕事」という部分が気に掛かった。しかし、ラティアの前でその詳細を訊けるはずもない。
「生憎とな」
 仕方なく唇の端に冷笑を刻み、リギアは無造作に持っていた短剣を腰の高さでしっかりと構えた。
「てめぇらの戯言を聞いてやれる程、暇じゃねぇんだよ」
 冷たいばかりのその口調を、彼の後ろで聞いていたラティアは思わず身震いをする。
 いつもとは違うリギアの、いつもと違いすぎる冷たい顔と冷たい言葉。理由もなく胸が苦しい。それは、ラティアにとっては一つの予兆だった。

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5.凍てつく予感 ―4― [吹きゆく風と、沈む夢【完結】]

 落ち着かない様子で、物珍しそうに辺りを見回していたラティアが大きく一つ溜め息をついた。
 イルクを出てしばらく北上した所に位置する、地図には記されていない村でのことだ。表向きは農業を生業としている者だけが暮らしているとされている。広大な拓けた土地を利用しての畑や、果樹などが茂り、一見は長閑な情景と思えた。
 しかし、村の外れの一角。古びた酒場付近の空気だけが異質であった。その界隈の裏路地に佇む者が発する気も、奇妙なまでに尖っている。
「何か、気味が悪いね」
 その空気を肌に感じているのか、ラティアは隣を歩くリギアの腕に自らの腕を絡めながらそう呟いた。
「ああ。ここに暮らす奴らはごく普通の人間だろうけどな。あの一角に出入りしている奴らがまともじゃないな。気を抜かないほうがいい」
「ルフィを置いてきて、良かったね」
 益々リギアに身体を寄せながら小声になる少女に、涼しい顔のままリギアは頷いて見せる。
 危険だからと言ってルフィを置いて来たのは本意だが、それだけが真実ではなかった。暗殺者ギルドと繋がる酒場が存在するこの村に、アスエルを連れて来ることは避けたかったのだ。
 リギアの顔を知っている人間はギルドの中でも数える程のはずだが、アスエルの顔は結構知れている。ギルドから『裏切り者』の始末を命じられる暗殺者は一人の『裏切り者』に対して数名で、それ以外の者はアスエルが離反したことすら知らないだろう。だが、万が一ということもある。面倒な事態に陥ることは極力避けたいリギアだ。ルフィの安全のためにと説得しイルクへ残して来た。
 リイルアードについては「戦う力なんてないんだから、ここに残るべき」とラティアが言い張った。これはリギアにとってはありがたい言葉だった。王子である彼を、村へ連れて行くわけにはいかない。当然、王子の顔を知っている者もいるはずだった。「仕事以外での手出しを禁ずる」とはギルドの掟だが、所詮はならず者の集まりだ。何が起きるか予測することは出来ない。
 いかにも不服そうに反論しようとしていたリイルアードであったが、「ラティアにバレてもいいのか?」と言うリギアの囁きに沈黙した。そんなわけで、現在はリギアとラティアの二人で行動をしている。
「ねぇ、リギア。リドルはここにいるのかな?」
 沈黙に耐え切れなくなったラティアが、声をひそめてそう訊いてきた。肩を竦めて見せながら、リギアは出来るだけ唇を動かさないようにして答える。
「さぁ? ここの酒場は拠点の一つに過ぎないって話だしな。それに腕のいい奴ってのはたいてい外に出てるだろうし、幹部連中はそもそもギルドにはいない。こういった場所に常駐してるのは下っ端だけだ……って聞いたことあるぜ?」
「だったら、これからどうしたらいいの?」
「とりあえず、今日のところは下見だけだ」
 表情を変えないよう心がけながらそう言葉を吐いたが、叶わずにリギアの唇が僅かに歪んだ。彼女がリドルを必死に探したところで、見つかることはないだろう。自分の隣に立つ男こそが、リドルなのではないかと彼女が疑わぬ限り。
「村を一回りして、様子を見て帰ろう。それでな、ラティア。良く考えるんだ。リドルとやらを探し出したとして、果たして自分が敵う相手なのかどうかを」
 彼はラティアの気が済むように、この村に連れてきたのだ。決して復讐を遂げさせてやるためにではない。この村外れに漂う空気は、異質のものだ。農業を営む村民達は暗黙の了解のようにその場所を避け、自ら近付こうとする者は皆無だった。そんな空気に触れ、彼女の眼が醒めればいいとリギアは思っていた。暗殺者は、戦う術を持たぬ娘が復讐など出来る相手ではないのだ。その現実を見てくれれば良いと思っていた。
「敵うとか敵わないとか、そういうことじゃない。リギア、私はただ……そうでもしないと、駄目なだけなの。私なんかがその人に敵うなんて、最初から思っていないわ」
 しかしラティアは、眼を伏せてそう言った。その瞳には、諦めのような不吉な色が混ざっている。
「何を馬鹿なことを! それは死にに行くようなものじゃないか!」
 思わず激昂して彼が叫ぶと、少女は身を竦ませ唇を噛み締めた。
「だって……他に、私が出来ることなんて何もないのよ!」
 唇を引き結び沈黙した後、瞳にうっすらと涙を浮かべてラティアが声を荒げる。リギアは、まるで心臓を掴み圧迫されているような胸苦しさを覚えた。
 愛しいと思う少女の涙も、切羽詰った復讐に逃れる心も。全ては、己がもたらしたものなのだ。全ては、己の罪なのだ。
「ラティア。そんなことじゃ、命がいくつあっても足りない。何のつてもなくリドルを探して、そこに辿り着くまでにどれ程の危険が伴なうか。わかってるか? リドルを見つけ出す前に、おまえが殺されてしまう可能性の方が高いんだよ」
 苦い思いを噛み砕きながら、彼は訴えるように出来るだけ平静に言葉を紡いだ。
「おまえに出来ることは、復讐なんかじゃない。ラティア、おまえの両親がきっと望んでいたように、幸せになることだ。誰かを傷付けては……誰かの血に染まった手では、決して幸せにはなれないんだ」
「例えそうだとしても、納得できない。このまま生きていくことは出来ないの。馬鹿げているかもしれないけど」
 呟いて、ラティアは無理矢理に微笑を浮かべた。泣き笑いの形相になり、細めた瞳から溜まっていた涙が零れ落ちる。
 それを優しく拭ってやりながら、リギアは深く嘆息した。
「そこまで分かっていて、それでも進むしかない。俺にもその気持ちは良くわかるし、止めてくれと言う権利なんてない。……でも、今日はもうイルクへ戻ろう」
 「何故?」と問うように首を傾げるラティアに、彼は曖昧な笑みを向ける。このまま彼女の傍に留まることは不可能だと、そうリギアは感じていた。これ以上、共にリドルを探すことは出来ない。その想いを抱えながら、先程までとは一変し不穏な空気を放つ酒場周りの様子を見ろと、押し殺した声で囁いた。
「叫んだり泣いたりしていたから、すっかり注目をあびている。このままここに居座るよりも、出直したほうが利口だとは思わないか?」
 囁くリギアの薄い水色の瞳が、鋭く尖っている。ラティアはこれまでに一度も、こんなにも冷たい彼の瞳を見たことがなかった。背筋が寒くなるような感覚を覚え、彼女はゆっくりと息を吐いた。
「本当だ。何だか私達、見られているみたい」
「だろ? だから、今日は」
「うん。そ、だね。今日はもう戻る。暗くなる前にイルクに着きたいし。ね?」
 まっすぐに見上げてくる、自分のことを信頼しきった大きな瞳が心に痛い。泣き出してしまいたいような気持ちを押し隠し、リギアは小さく微笑んだ。
「ああ。そのとおりだ」
 いつまでたっても、胸の苦しさが和らぐことはない。それどころか、刻々と大きく深くなっていく。
(もう駄目だ。離れなくてはならないんだ)
 涙の痕を残しながら、けれども優しい表情で己を見つめる少女の肩に、彼はそっと腕をまわした。壊れ物に触れるように、優しく抱き寄せる。
「リギア?」
 行こう。と、促すその人の手がひどく震えていて、ラティアは不思議そうに眉を寄せた。思わず盗み見たリギアの顔には表情が無く、感情を読み取ることは出来ない。けれども、何故だか言い知れない不安に胸が揺さぶられ、彼女の鼓動が早くなる。
 喩えようのない不安と、そして焦りのような感情が、彼女の心をゆっくりと満たしていった。

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5.凍てつく予感 ―3― [吹きゆく風と、沈む夢【完結】]

「ラティアのまっすぐな瞳に見つめられて、俺は自分の中の違和感に気付かされた。ラティアを大切に思うようになって、自分が犯した罪の重さを感じるようになった。俺が殺した奴を、愛していた人もいるんだ、必ず。俺は憎まれている。俺がしてきた事は、人と魔族の隔たりを広げていたんだ。新たな憎しみを生み出しただけで、他には何も出来ていない。奴らが、俺に何かしたわけではないのに。俺が本当に憎かったのは、俺自身だったのに!」
 アスエルは沈黙したまま彼の手を取り、己の両手で包み込む。
「この瞳で普通に暮らしていく事が怖かった。他人に拒絶されるのが嫌だった」
 涙に詰まった声でそう吐き出し、リギアは身を起こしてアスエルにしがみついた。
「最初はただ、それだけだった。あそこにしか、俺の居場所はないって。切り拓こうとしなかったのは俺なのに!」
 嗚咽を堪えるように飲み込んで、リギアはゆっくりと息を吐き出した。堰を切ったように、積み重なる後悔の念があふれ出して止まらない。
「ラティアに出会って気付いていたのに、俺はギルドから抜けることが出来なかった。居場所を失うのが怖かったんだ。ラティアの心を受け止めると決めてからは、せめて、ギルドから距離を置くようにしていた。半ば、離反したような状態だった。――けれど、ラティアが突然姿を消してしまった後、俺は自暴自棄になった。そして、愚かにもギルドに戻ったんだ」
 自嘲的な笑みが、彼の唇にこびりついていた。語る自分の行いの情けなさに、言葉を進める度、自身が打ちのめされる。
「ラティアに再会して、今度こそと心を決めた。クルスに向かう馬車、襲われただろ? あれは、あんたに対する警告じゃない。多分、俺に対するものだ」
 アスエルから離れ、肩を落としたリギアは表情を消して自分の両手を見つめた。
「俺はラティアを守りたかった。彼女の傍にいる事を許される人間になりたかった。でも、もう駄目だ。身勝手な俺に下された罰なんだろう。ラティアとは、離れないと駄目なんだ」
「どうしてだよ。ラティアの勘違いなんだろ? あいつの親を殺したの、おまえじゃないんだろ?」
 訝るような表情のアスエルを見つめ、彼は力なく首を横に振る。
「俺、だったんだ」
 吐き捨てるようにリギアは言った。
「あいつ、エヴァランス公爵の娘なんだってよ。俺もあいつも、互いのことを偽り続けていたって事だ。なぁ、アスエル。俺はさ、貴族や商人なんて、皆、同じだと思っていたんだ。けれど、あいつの両親は……。結局、俺は、理解者を……っ!」
 自嘲的に笑う彼の表情が大きく歪む。リギアはアスエルに、リイルアードの事やラティアこそが彼の婚約者である事などを話した。
「確かに、ラティアの両親を殺したのは俺だった。けれど、誓って兄は狙っていない。エヴァランス公爵夫妻が別荘にいるところを狙ったんだ。何故、あいつの兄がそんな事を言ったのかわからないが」
「誰かが名を語ったのか? 紫眼の暗殺者、リドルの名を」
 リギアの唇に、ふと苦い笑みが漏れる。
「あんた、そこまで知っていたのか。それで何故、黙っていたんだ?」
「おまえの事は、最初から気付いていたんだ。ラティアは貴族か豪商の娘にしか見えなかったし、暗殺者と標的だろうと思っていた。関わるつもりもなかったさ。けれども、ラティアの言葉を聴いて、ラティアを守りたくなった。それから、何かを迷っている様子のおまえを見て、手を差し伸べてやりたくなったんだ」
「アスエル……」
「俺はソリティアと呼ばれていた。おまえも、名前くらいは知っているかもな」
 リギアは記憶を辿るように眼を細めた。
「聞いたことがある。いい腕をしていたと」
「だからこそ、今、生きているんだよ。ギルドの差し向けた刺客なんかに殺られてたまるかってな」
 にやりと笑ったアスエルはそこまでを不敵に言い放つが、ふと表情を引き締め目線を落とす。
「でも、ルフィまで狙われたくないだろう」
 それが、この男がバルゼへ向かう理由なのだろうと訊くまでもなく理解できた。二人が無事バルゼに辿り着けることを、心の内で強く願う。
 不意に眼を伏せて、それからリギアは虚ろな瞳で薄暗い部屋の天井を見つめた。嘆息まじりに吐き出される彼の言葉は、暗く沈んでいる。
「俺は、何て、虚しい行為を繰り返していたんだろう」
 その呟きを耳にとめ、アスエルは短く嘆息してリギアの背を軽く叩いた。昂っていた感情が不思議と鎮まって行くのを感じ、リギアは大きく息を吸い込む。
「もう、大丈夫だ」
 深呼吸を繰り返していると、大きな手で乱暴に頭を撫でられた。二十代後半の男に対して酷い子供扱いではあるが、何故か悪い気はしない。リギアは瞳を閉じ、アスエルの肩に己の額を押しつけた。
「リギア、共にバルゼへ来ないか? 暗殺者の追手も振り切れると思うんだ。バルゼは大陸の中で、一番魔族差別が弱い国だと言うしな」
 気遣いの篭った口調でアスエルに問われ、僅かに相好を崩しながらもリギアは首を縦には振らなかった。
「まだ、やらなきゃならない事がある。ラティアの身が心配なんだ。公爵夫妻の暗殺を依頼した奴を調べたい。ラティアに危険があるようならば、影からでも守りたいんだ」
「だったら、それからでも遅くはないさ。終わったらバルゼに来いよ。独りでいるよりはずっといいはずだ」
 穏やかな声に、リギアは小さく頷いた。
「そのときは、よろしく頼むよ」
 唇の端を、ほんの少しだけつりあげて小さく笑う。無理の残る笑顔だったが、アスエルは微かに眼を細めた。
「まだこの先、道のりは長いんだ。こんな所でへこんでいたら、残りの人生が勿体無いぜ?」
「ああ」
 おどけたようなアスエルの口調にリギアは笑みを深める。
「でも、どうしても思ってしまうんだ。どうせなら、こんな事になる前に……」
 ふと、真顔に戻りリギアはそう呟いた。
 胸を突かれるような思いでアスエルはその言葉を聞く。そして、心の中で小さくため息をついた。
(けどな、リギア。こんな事にでもならないと、気付けないんだ)
 それが、『世界に属する』ということなのだ。善悪の区別などはひどく曖昧なものにすぎない。物心つく頃に属していた世界が、自分にとって絶対的に正しいものになってしまう。
「そうしたら、今は、未来は、変わっていたのかな」
 消え入りそうなその声に、アスエルは答えない。それは、彼自身が見い出すべきものであるからだ。そして何よりも、リギアが答えを望んでいないことをわかっていた。
 黙して。彼はただリギアを抱きしめた。

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5.凍てつく予感 ―2― [吹きゆく風と、沈む夢【完結】]

「なぁ、リギア。俺は……昔、逃れられないものなんてないと思ってたんだ」
 不意に、アスエルが呟いた。
 伝言を聞いてすぐにやってきたアスエルは、リギアの寝ている寝台の脇に椅子を寄せ、何も訊かず何も言わずに黙って座っていた。
 夕食の時間にルフィとラティアを伴い、リイルアードがやってきた。その後、二人が自分達の宿泊している宿へ帰るときも、アスエルはリギアの傍を離れなかった。二人を送って帰って来たリイルアードに「今夜は俺が付き添うから」と告げ、今に至る。
 何も言わず、ただ傍にいる。それが、何故だろうか、とても嬉しい。そんな快い沈黙の中、まどろみから眼を醒ました彼に、アスエルはそう呟いた。
 夜更け。夜鳥の静かな鳴き声だけが、暗闇の中に響いている。
「え?」
 何故か懐かしく聞こえるその声に、リギアは半身を起こして問い返した。
「その気になれば、いつでも逃れられると思っていた」
 彼の言葉に含まれる悲しい響きに、リギアは微かに眼を細める。
「おまえはもう気付いているだろうが……俺は昔、暗殺者だった。言い訳のつもりじゃないがな、物心ついた頃から暗殺者となるべくして育てられていた。だから、罪悪感なんてなかったんだ。その仕事が、俺にとっては当たり前の事だったから。けれど、一人立ちして、色んな奴らと触れ合って、時には俺が殺した奴の知り合いなんかにも会って」
 アスエルは一旦言葉を切り、唇を噛みしめながら虚空を睨みつけた。
「自分がしてはならないことをしていると、悟ったんだ。それからは地獄だったぜ? どのくらい前だったか――九年は経つか。ギルドを抜けて神殿に通ってみたり、色々してみたけれどな。もう、たまんなくて、気が狂いそうになる事もあった。どうしようもなくなっていた頃、ルフィを拾ったんだ。二年くらい前だ。無垢な娘だったけれど、紫の眼をしていた。明らかに魔族なのに恐れるような力なんて持っていなくて、親も名前もなく、ゴミみたいに扱われていた。放っておけばギルドに連れて行かれ暗殺者として育てられるのが目に見えていた。罪滅ぼしのつもりで俺はあいつを拾った。……それで、逃れられると思っていた」
 自虐的に笑い、彼は諦めたような笑みを浮かべて小さく首を横に振る。月の光に照らされて、その薄茶の瞳が不思議な輝きを放っていた。
「でも駄目だったよ。罪悪感は日々増していくんだ。悪夢も増えていく。自分が、誰かを大切に思えば思うほど苦しいんだ。俺が殺した奴にも、きっとそんな相手がいた。そいつらはどんな思いをしたのだろう。そんなことを考えてしまう」
 四十を過ぎた壮年の男は、苦く呟いて軽く眉間を寄せる。
「俺は、これから先も影に怯えながら生きて行くんだ。それだけが、今の俺に出来る償いだからな。生涯、この悪夢を背負って生きて行く」
 自嘲的に歪んだ唇から放たれる言葉は、意外にもきっぱりとしていた。
 アスエルがそれきり黙りこんだので、室内は再び沈黙に支配される。ややあって、リギアが重たい息を吐き出した。薄い水色の瞳で、力なくアスエルの眼を見つめる。
「何で、俺に、そんなことを」
 困惑を隠せない声で問うと、アスエルは寂しげな笑みを見せた。
「話しておくべきだと思ったんだ。おまえは俺と同じ匂いがする。だからこそ、伝えておきたい。どれだけあがいても、悲しみを憎しみでごまかす事は出来ないし、犯した過ちを消す事も出来ない。だから、逃れようなんて思うな。どうせ逃れられない。俺たちは、過去を見つめて生きていかないとならないんだ」
「アスエル……知っていたのか?」
 リギアは潤んだ瞳でアスエルを見つめ、縋るように彼の袖を掴む。そして、彼の瞳の中に肯定の色を見た後、リギアはぽつりと呟いた。
「夢を見たんだ」
 独白じみた口調で紡がれる彼の言葉を、アスエルは沈黙して聞いている。
「もう、忘れた記憶だと思っていたのに。とても鮮明だった」
 リギアは彼の服から手を離し、全身の力を抜いて寝台に身体を倒した。
「俺は、魔族なんだ。両親にも疎まれていたのか、屋敷の中で部屋に閉じ込められて育った。五歳くらいの時に、暗殺者によって俺の一族は抹殺された。けれど、俺は、この瞳のおかげで命を助けられた」
 リギアの薄い水色の瞳が揺らぎ、紫の色が混ざる。燭台の火も灯らぬ、月明りだけの部屋の中で、その瞳は異様に煌いて見えた。
「初めはわかっていたはずなんだ。自分が生き延びるために、罪を犯す事を選んだって。それなのに、いつの間にか忘れていた。示された道を歩く事を選んだのは自分なのに、弱さに甘えて抗う事さえしなかったのも自分なのに! 俺の中に残っていたのは怒りや憎しみだけだった」
 忌々しげに吐き捨て、彼は固く眼を閉じる。アスエルは全てを理解したような表情で、優しく彼を見つめていた。
「そんな俺の心を変えてくれたのはラティアなんだ。俺がしている事がどんな事か、気づかせてくれたのはラティアだったんだ」
 爪が、手の平に食い込むほど強く。リギアは己の手を握りしめる。その表情はひどく辛そうで、見ているアスエルの胸までもが痛んだ。

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5.凍てつく予感 ―1― [吹きゆく風と、沈む夢【完結】]

 その日、屋敷は喧騒に包まれていた。
 厳重に施錠された部屋から出る事も出来ず、少年はひどく怯えていた。飾り気こそないが、清潔で上質な衣服を纏った五、六歳の少年だ。高い位置にある小さな窓は、かろうじて日の光が差し込む程度。外の様子を窺う事は出来ない。
 彼はいつも一人だった。一人、ただ生かされているだけだった。
 大きな屋敷の中にある、小さな窓が一つきりの隔離された部屋で。大勢の人間が暮らす屋敷の中で、彼の周りには誰もいなかった。身の回りの世話をする者も、彼をまっすぐに見つめる事はなかった。勿論、言葉をかける事など数える程だ。
 本は飽きるほど与えられており、時折、教師として雇われた者も尋ねて来る。文字を読む事は出来るし、声帯にも問題はない。けれども、今年で五歳になる彼は、全く言葉を発しない子供に育っていた。日の光にあたる事が極端に少なく、運動も充分ではない。故に、少年の皮膚は病的なまでに蒼白く、筋肉の発達も遅れているのが見て取れる。
 彼は忌むべき者として、この部屋に隔離されていた。彼を隔離するように命じた両親は、数える程度その部屋に足を運んだだけだ。幼い少年の記憶の中で、いつでも両親の顔は朧げだった。
 少年は感情の乏しい瞳に僅かな不安の色を混ぜ、外の世界と自分をつなぐ唯一と思える扉を見つめた。外で何が起きているのかはわからないが、喧騒は次第に大きく近くなっている。
 広い部屋の中を落ち着きなく歩き回る少年の腕には、彼が持つには大きすぎる竪琴が抱えられていた。それは、数ヶ月前の少年の誕生日に両親が贈ったものだ。弾き方もわからずに、指で弾いて遊ぶのみではあったが、少年はそれを片時も離さずにいた。名匠の手によるもので、弾き手によっては人々を魅了する魔力を持つ竪琴だ。子供の玩具としては、勿体ない代物だった。
 何故だろうか、少年の胸中がざわめいた。しかし、それが不吉な予感なのだと理解できるほど、少年の感情は発達していない。彼は立ち止まり、白銀製の竪琴をきつく抱き締めた。
 ひどく慌しく鍵を回す音が聞こえ、少年は表情を強張らせながら扉を凝視する。男女の叫び声と共に、乱暴に扉が開かれた。その途端、彼の部屋の中に今までに嗅いだことのない強い臭いがたちこめる。彼は見開いたままの眼で開かれた扉の向こう側を見つめ、一歩、後退りをした。
 二つの人影が、部屋に転がり込むようにして入って来る。影の一つは床を這うように少年に向かい、膝立ちの姿勢になって彼をきつく抱き締めた。その反動で少年はよろめき、床に尻餅をつく。自分を抱き締めているのが父親であり、何故かその手が血に濡れている事を理解するのに数秒が必要だった。
「逃げなさい」
 父親は、少年の耳元にそう声を吹き込んだ。精一杯平静を装ってはいるものの、苦しげに掠れた声だった。言葉の意味するところを理解できず微動だにしない息子に、父はもう一度言葉を繰り返す。
「この屋敷に居たら炎に巻かれて死んでしまう。逃げなさい」
 そう言われはしても、少年はどこへ逃げてよいものかわからない。動けずに戸惑いを隠せない瞳で父親を見つめた。
 そうしているうちに、父と共に部屋に飛び込んできたもう一方の影――少年の母親がゆっくりと身を起こす。そして、扉の向こうを見やり何事かを叫んだ。掠れた声で、言葉の内容はわからない。しかし、その絶望が滲み出ているような声音に、少年は背筋が冷え込んでいくのを感じた。
 父の言葉通り逃げ出したいが、身体が竦んで立ち上がることすら出来そうになかった。混乱した少年は、思わず父に縋りついた。これほどに近く、父に触れたことは初めてだった。けれども、父は言葉を返さなかった。少年をきつく抱き締めていた腕の力が緩み、身体の重みが増す。
 少年は唇を震わせながら、二、三度父親を揺さぶった。唇の形が「父さま」と動くが、乾いた喉からは声が出ない。父から流れ出た血液が、少年の衣服を真っ赤に染め上げていき、彼の顔にはっきりと恐怖が浮かび上がった。
 少年は、二人と扉の間に背を向けて立ち大きく腕を広げている母親を見上げた。母の前には、数人の男がそれぞれの得物を携え立っている。中央に立つ男が短剣を持った右手を振り上げる様が見えた。母の手にも小ぶりの刃物が握られており、彼女は必死でそれを振り回している。しかし、彼女の動きは当然ながら訓練されたものではなく、油断していた男に深手を負わせはしたものの、別の男にあっさりと羽交い絞めにされ動きを封じられてしまった。
 ちらりと母が少年に視線をはしらせる。薄い水色の、哀しげな瞳の色が少年の脳裏にやきついた。身体の自由を封じられた母の首筋に、短剣が押し当てられる。少年の身体は硬直し、顔を背けることも瞳を閉じる事も出来なかった。
 鮮血が辺りに飛び散り、少し離れた場所に立つ少年の髪をべっとりと染め上げる。母を拘束していた男は、彼女の身体が力を失うと同時に無造作に彼女を床に投げ出した。男達は部屋の中を鋭い眼で見回し、少年と父親の方へ足を進める。
「このガキは?」
「知らねぇよ。子爵家にガキがいたなんて初耳だ」
 そんな会話が耳に入り、少年はゆっくりと彼らを振り仰いだ。
「ほぉ……」
 既に動く事のない父親の背に短剣を突き刺した男が、その眼で少年の瞳を凝視している。震える事すら出来ずに、少年は男の瞳を見返していた。
 にやりと笑い、男は父親の背から短剣を抜く。傷口からは僅かな血液が滲んでいた。短剣から飛び散った血が少年と男に降りかかるが、それを気にも留めない様子で男は父の亡骸を蹴り飛ばした。
 そして手を伸ばし、ごつごつした指先で少年の顎を捉える。
「紫の瞳か。魔族だな。隠されて育ったのか」
 心の中で、何かがざわめいているような気がした。男に触れられた部分から、皮膚が腐り落ちていくかのような不快感が湧き上がる。
「いい素材だ。連れて帰るぞ」
 乱暴に腕を掴まれ、少年は無理やりに立ち上がらされた。掴まれた腕が痛み、恐怖と憎しみが同時に少年の心を満たす。少年は無造作に投げ出された父と母の骸を見つめ、小さく唇を震わせた。倒れているのは、自分をこの部屋に幽閉した両親だ。幾度、心の中で恨み言を述べたかわからない相手だ。この部屋を訪れる事とて、数ヶ月に一度程度の薄情な親。それなのに、先程の彼らは自分を助けようとしているかのようだった。
 彼らの裏腹な態度に、幼い彼の頭はひどく混乱し、瞬きする度に涙の粒が頬を滑り落ちた。竪琴をかき抱くようにして、身体をすぼめ瞳を閉じる。
「依頼は子爵家一族だが、どうせ公表されてないだろう。おまえの命は助けてやるよ」
 嘲るような声を聞く少年の唇から、言葉にならない声が発せされた。しばらくぶりに彼が発した声は、我を忘れた狂気の叫びとなったのだ。
 少年の心からは恐怖が消えていた。身体の奥から突き上げるように破壊の衝動が襲ってくる。彼はそれを抑える事が出来なかった。
 少年の周囲に微かな風が沸き起こり、指先には紫銀の光が集う。制御を失った魔力が、鋭い刃をもつ風となって部屋の家具をなぎ倒し、更に金目のものを漁っていた男達を襲った。己の魔力の暴走により破壊される部屋と断末魔の声をあげ倒れる男達を、どこか冷静な面持ちで彼は見つめていた。
 少年の腕を掴んでいた男が、罵声を浴びせながら彼の鳩尾を殴りつける。彼は息を詰まらせその場に膝をついた。すかさずその首筋に手刀を入れ、男が少年の意識を奪う。
「憎め。それでいい。それが正しい。おまえは生涯人間を憎んで生きるんだ」
 遠のく意識の中で聞こえてくる男の言葉は、まるで呪いのようだった。
「魔族差別を。それを作り上げた王族や貴族共を。そして、この世界の全てを憎め。憎んで……その忌まわしい力を放つといい」
 その言葉だけが、彼の心を染めていく。
 力なく、床に倒れこんだ少年の胸には、白銀製の竪琴が抱き締められていた。

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